ジョン(John, King of England、1167年12月24日 - 1216年10月18日または19日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)。同朝の初代王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。通称は欠地王または失地王(John Lackland)で、出生時に父ヘンリー2世から領地を与えられなかったことに由来する 。失政を重ねたことで国内諸侯の怒りを招き、王権を制限するマグナ・カルタへの合意を余儀なくされた 。 1. ジョン王の右腕. マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう、羅: Magna Carta、羅: Magna Carta Libertatum、英: Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)は、イギリス(連合王国)の不成典憲法を構成する法律の一つであり、イングランド王国においてジョン王の時代に制定された憲章である。イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。また世界に先駆け敵性資産の保護を成文化した[1]。成立から800年が経過した21世紀の現在でも現行法となっている。, ブーヴィーヌの戦いでフランスに敗北したジョンは、戦後さらなる徴兵を必要とした。しかし、イングランド貴族たちは度重なる軍役に反発、徴兵に応じるどころか、ジョンに対しそれぞれ抱えていた財政負担や不満を救済するよう強く求めた。1215年6月19日、貴族たちの要求をまとめる形でサリー近郊のラニーミードにおいて制定された。これにより、イングランドにおいて法の支配が初めて確認されることになった。その後マグナ・カルタは、教皇インノケンティウス3世の勅令により無効とされたものの、その後復活し数度改正されている。1225年に改正されたヘンリー3世によるマグナ・カルタの一部は、現在のイギリスにおいても憲法を構成する法典の一つとして効力を有する。, マグナ・カルタの理念は、その後しばらくの間忘れ去られていたが、国王と議会が対立した17世紀に再度注目されるようになり、エドワード・コーク卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理としてまとめられた。また、清教徒革命やアメリカ独立戦争の根拠ともなった。2009年、マグナ・カルタはユネスコの『世界の記憶』に登録された。, 1204年、ジョン王がフランス王フィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1214年、ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。この戦いは教皇派と皇帝派の争いという側面をもっていたが、同年7月27日フランスの勝利に終わった。ジョン王のさらなる徴兵に対して貴族はいきり立った。帰国したカンタベリー大司教(John de Gray)は彼らに対話で解決するよう働きかけたが同年10月18日に死んだ。貴族側は、さしあたりヘンリー1世の戴冠証書(Charter of Liberties)の写しを要求の出発点とした。「未知の憲章(The Unknown Charter)」が作成され、年内から交渉に用いられた。この12項目からなる「未知の憲章」は、19世紀末にジョン・ホラース・ラウンド(J. Horace Round)により再発見され[2]、現在大英図書館に所蔵されている。貴族らは雑多ながらも具体的な要求を掲げた。デュー・プロセスの保障、相続税額の具体化、ユダヤ人に対する負債の猶予、軍役の範囲をノルマンディーとブルターニュまでとすること、そして御料林という直轄領に関する事項であった。12項目のうち3項目は御料林に関係した。まず、ヘンリー2世の即位年から御料林法で設置されたものは、根拠法の適用を受けないものとした。1135年以降、その根拠法が適用されるのと等しい状態にあった土地も、適用を免れるものとした。御料林法が引続き適用される地域でも効力が制限されることとなった。, 1215年1月、ジョン王はロンドンで反抗勢力と対話する姿勢を見せつつ、教皇庁に仲裁を求めた。教会への臣従を示していたジョン王の求めに応じてインノケンティウス3世は、ジョン王の裁決に従うよう貴族達に言い渡した。, 教皇からの通達は4月には届いていたが、既に貴族達は武装蜂起の準備を進めており、5月にノーサンプトンに集結し、王への臣従誓約を破棄した。, ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発したが、ロンドン市は貴族側に同調しこれを迎え入れたため、ジョン王はロンドンの西にあるウィンザー城に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。, そこでは諸権利が封建的慣習にもとづく強制手段により担保されていたが、聖職者はこの点に反対であった。さらにそこへはロバート・フィッツウォルター(Robert Fitzwalter)を長とする25人の貴族が代表者として選出されることが盛り込まれた(いわゆる保証条項の一部)。6月10日から島のように開けたラニミードに天幕を張って最終折衝が行われ、19日にマグナ・カルタという妥協が成立した。マグナ・カルタは御料林について、各地方の騎士たちが問題地域の慣習を調査することを規定したにとどまった。, 経過報告を受けていたローマ教皇インノケンティウス3世が、6月下旬に貴族条項ないしマグナ・カルタの廃棄を命じた。イングランド国王は神と教会以外の約束に縛られるものではないとして、キリスト教の復権を図った。令状は9月下旬に王と貴族の双方へ届けられた。3か月の郵送期間には既得権が成立していた。マグナ・カルタはジョン王にロンドンを明け渡すことを定めていたが、3か月が過ぎてもロンドン市民は行政長官の支配を許さなかった。例の25人がロンドンに軍を保持していたのである。かたや25人の代表団はマグナ・カルタによって所領の自治を実現した。彼らは10州で自分たちの州長官を任命した。, 教皇の支持を得たジョンが再び争うと、貴族らはフランスのルイ王太子(のちのルイ8世)に王位を提供しようとした。, 1216年10月、ジョンが死ぬとルイ王太子がロンドンへ侵攻した(第一次バロン戦争)。マグナ・カルタはヘンリー3世の摂政ウィリアム・マーシャルの元で再確認され、バロン戦争を終結させた。そしてこのときやっと、御料林憲章(Charter of the Forest)が公布された。, ヘンリー3世はその後マグナ・カルタを守らなかったため、たびたび再確認・修正された。, 前文と、63か条から構成される。原文はラテン語が用いられている。写しが大量に作られたため[3]、各地に残っているが、イングランド内に現存するオリジナルの文書は4通である。特に重要な規定が以下の5項目である。, イギリスの現行法令集(Halsbury's Statutes、ハルズベリー法典)に載っている条文は、1225年のヘンリー3世の時代に作られた新しいマグナ・カルタを、1297年にエドワード1世が確認したものである。前文と4か条が廃止されずに残っている。, 意訳。「イングランドに身柄のある敵国の商人は、原則として身体の自由と財産権をなんら損なうことなく留め置かれる。ただし、王か王室裁判所の所長が、敵国に身柄のあるイングランド商人がどのような待遇を受けているか知った後は、イングランド内の敵国商人は互恵主義に基づいて扱われる」, Master Stephen Langton, Future Archbishop of Canterbury: The Paris Schools and Magna Carta, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=マグナ・カルタ&oldid=81523781, 自由なイングランドの民は、国法か裁判によらなければ自由や生命、財産を侵されない。(第38条), 第9条(1215年の原マグナ・カルタの13条に相当) ロンドン市等の都市・港の自由, 第29条(原39条および40条) 国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産を奪われない(, 第37条(1225年のマグナ・カルタの37条および38条に相当) 盾金、自由と慣習の確認、聖職者および貴族の署名, エドマンド・キング著 古武憲司 ほか2名訳 『中世のイギリス』 慶應義塾大学出版 2006年 141-148頁. ブーヴィーヌの戦いでフランスに敗北したジョンは、戦後さらなる徴兵を必要とした。しかし、イングランド貴族たちは度重なる軍役に反発、徴兵に応じるどころか、ジョンに対しそれぞれ抱えていた財政負担や不満を救済するよう強く求めた。1215年6月19日、貴族たちの要求をまとめる形でサリー近郊のラニーミードにおいて制定された。これにより、イングランドにおいて法の支配が初めて確認さ … 1204年には、イングランドのジョン王によってこの地に城が建てられます。 しかし、当初から現在見られるような姿であったわけではなく、砲火や火災によって破壊されたのちに再建されたため、現在残る建物の大部分は、18~19世紀に建てられたもの。 ジョン王の右腕. 旺文社世界史事典 三訂版 - ジョン王の用語解説 - 1167〜1216イングランド王(在位1199〜1216)。欠地王と呼ばれるプランタジネット朝第3代の王,ヘンリ2世の末子。1204年フランス王フィリップ2世と争い,北フランスのノルマンディー地方などを失った。 1204年には、イングランドのジョン王によってこの地に城が建てられます。 しかし、当初から現在見られるような姿であったわけではなく、砲火や火災によって破壊されたのちに再建されたため、現在残る建物の大部分は、18~19世紀に建てられたもの。 田中 美穂 Miho TANAKA 一般科文系 Dept. 後にジョン王 当時の王家では、生まれてすぐ母親 ジョンをかわいがり、溺愛したという。なかった。そのかわり、父は末子のジョンも幼少時には母親との接触は少から離され乳母に育てられるのが慣習。 しかしその愛が、父子兄弟間で繰り かった。 第4回十字軍(1202~1204) 法然(1133~1212) 熊谷直実(1141~1208) チンギスハン中国侵攻開始(1211) マグナ・カルタ制定(1215年) 北条時政(1138~1215) 栄西(1141~1215) 平徳子(1155~1213) ジョン王(在位1199~1216) 鴨長明(1155?~1216) 源実朝(1192~1219) 1204 ジョン、フランス王フィリップ2世と争い、ノルマンディーをはじめとする大陸領の大部分を失う 1209 ジョン、カンタベリー大司教の任命権をめぐり教皇インノケンティウス3世に破門さ … 1140-1204 アラン ... 父:スコットランド王ロバート2世 初名:ジョン 1368-1390 キャリック伯 1390-1406 スコットランド王 妻:アナベラ・ドラモンド1350?-1401(父:サー・ジョン・ドラモンド) 1378-1402 デーヴィド ロバート(夭折) 1394-1437 ジェームズ1世 ?-1456 マーガレット(夫:4代ダグ … 1215 年、イギリスのプランタジネット朝ジョン王は、63 条からなる「マグナ・カルタ」(大憲章、【羅】Magna Carta、【英】the Great Charter)を承認する。 マグナ・カルタは、貴族や都市の封建的特権を制約するもので、国王が課税する際にも貴族や聖職者の同意が必要になった。 ジョン(John, King of England、1167年 12月24日 - 1216年 10月18日または19日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド 王(在位:1199年 - 1216年)。 同朝の初代王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。 通称は欠地王または失地王(John Lackland)で、出生時に父ヘン … ジョン王の兄リチャード1世(獅子心王)に仕え、カンタベリー大司教兼大法官という 聖俗最高の役職を兼務して、宰相の任務を務めた。 ヒューバートの死後、ジョン王は後任のカンタベリー大司教を巡ってインノケンティウス3世と 対立し破門を宣告された。 一一九三年一月、ジョンはフランス王と協定を結んだ。 王は、ノルマンディーに侵入し、イングランドを侵略するために艦隊を準備させた。 リチャードの弟の攻撃からイングランドとノルマンディーを防衛するのは、その役人たちの仕事だった。 今年は,イングランド王ジョン(在位1199~1216年)の 没後800年の年に当たる.アイルランドでは,これを記念 して,「ジョン王 1216~2016年 800年」(King John 1216-2016, 800 years)と題する国際学会がジョン王ゆかり のち、ジョン王はロバートに新たにラドゥポンの城と領地を授与した。 ... 卿ウィリアム・ド・ブローズの娘ロレッタ・ド・ブローズと結婚するも子供は得られず、1204年のロバートの死によりボーモン家の男系によるレスター伯爵家は断絶した。 13世紀、ローマ教皇の全盛期の教皇。神聖ローマ皇帝(ドイツ王)やイギリス王・フランス王を屈服させ、強大な教皇権を実現、「教皇は太陽、皇帝は月」との言葉を … ヒューバート・ド・バーグはノーフォーク、サフォーク地方に地盤を持つノルマン人領主家の出身で、兄ウィリアムは1185年からアイルランド・リムリック総督としてジョン王のアイルランド統治で要職を担った人物であった。 高麗20代王 神宗(シンジョン) 王晫(ワン・タㇰ) 1144.8.11(陰7.11)生~1204.2.15(陰1.13)没 在位 : 1197~1204 兄であるリチャード1世が戦いに明け暮れ、長くイングランドを留守にしたため、イングランド王の勢力を削ごうとするフランス王フィリップ2世にそそのかされて王位簒奪を夢見ていた。本来なら王位につく可能性は少なかったが、1199年にリチャード1世が中部フランスで戦死してから状況が一変する。リチャードは即位当初、弟ジェフリー(ジョフロワ、ジョンには兄にあたる)の遺児アーサー( … ヒューバート・ド・バーグはノーフォーク、サフォーク地方に地盤を持つノルマン人領主家の出身で、兄ウィリアムは1185年からアイルランド・リムリック総督としてジョン王のアイルランド統治で要職を担った人物であった。 1215年に イングランド の ジョン 王が バロン (諸侯) たちの圧力に屈して調印した勅許状を基礎に,16,17年の 改訂 を経て,25年の 国王 ヘンリー3世 の時代にさらに整備,完成されたもの。 「アイルランド領主」としてのイングランド王ジョン King John as a lord of Ireland: the significant relationship between John and Ireland. 1204年には、イングランドのジョン王によってこの地に城が建てられます。 しかし、当初から現在見られるような姿であったわけではなく、砲火や火災によって破壊されたのちに再建されたため、現在残る建物の大部分は、18〜19世紀に建てられたもの。 ダブリン城は1204年イングランドのジョン王により建設された。イギリス支配の象徴であり、内部は豪華で贅(ゼイ)の限りを尽くしている。城門の上に立つ、右手に邪悪を退ける剣を、左手に公平を表す天秤を持つ正義の女神像は城内を向きダブリン市民には背を向けている。 1204年、イングランド王兼ノルマンディー公ジョン(欠地王)はフランス王フィリップ2世にノルマンディー地方を剥奪されたが、ジャージー島はイングランド王領に留まった。それ以来、ジャージー島は歴代イギリス王室の直轄地となっている。 ジョンはプランタジネット朝創始者であるヘンリー二世とアリエノールの末弟として生まれた。 二人の間には8人の子供が生まれたが、ヘンリー二世はジョンを特に寵愛していたという。 イングランドはわが国日本と同様に長子相続の伝統があったため、ジョンには告げる土地がなかった。このため彼は「ラックランドジョン」という「土地なしジョン」という意味のあだ名がつけられることになる。 … 1204年にイングランドのジョン王によってバイキングの要塞があった場所に建てられ、それから1922年1月19日に正式にアイルランドに譲渡されるまでの約700年間、英国支配の本拠地として使われており、アイルランドのイギリス支配のシンボルでした。 イギリスの歴史を見ると、中国やローマ帝国と比べても名君が少ない代わりに暗君や暴君も少ないと言える。, イギリスではアングロサクソン七王国の時代から賢人会議という議会が存在していたが、イギリス国内の諸侯の集まりである議会の力が強まったのはジョン王の時代のことである。, イギリスで最も暗愚と呼ばれ、以降ジョンの名を語る王がいなくなるほどの大失態を犯したプランタジネット朝ジョン王について見て行こう。, ジョンはプランタジネット朝創始者であるヘンリー二世とアリエノールの末弟として生まれた。, 二人の間には8人の子供が生まれたが、ヘンリー二世はジョンを特に寵愛していたという。, イングランドはわが国日本と同様に長子相続の伝統があったため、ジョンには告げる土地がなかった。このため彼は「ラックランドジョン」という「土地なしジョン」という意味のあだ名がつけられることになる。, ヘンリー二世はこのことを不憫に思い、ジョンにアンジューの土地を継承させようとしたが、これを不満に思った次男、三男、四男および妻がフランス王とスコットランド王の協力のもとにヘンリー二世のもとに襲い掛かった。, 広大な土地と軍事力を持つヘンリー二世はそれでも勝利をするが、次男と四男が立て続けに病死してしまい、三男のリチャードにまたもジョンに土地を分けてやらないかと相談したところ、リチャードはフランス国王フィリップ二世と組んでヘンリー二世を強襲し、ヘンリー二世は息子との戦争中に亡くなってしまう。, ヘンリー二世が亡くなるとイングランドを始めとした広大な土地を三男のリチャード一世が継ぐことになった。, しかしその即位とほぼ同時に第三回十字軍が結成され、リチャード一世は遠くシリアの地に旅立ってしまう。フランス王フィリップ二世もこれに参加していたのだが、リチャード一世との折り合いが悪く途中で帰国すると、ジョンを唆してイングランド王が持つフランスの領土をわがものにしてしまう。, この時ジョンは自ら王位に就こうとするが、イングランド内のあらゆる勢力に反対されて王にはなれなかった。ロビンフットの伝説に出てくる簒奪を狙う「悪い王」とはジョンのことである。, 帰国したリチャード一世は激怒し、フィリップ二世から奪われた土地を取り戻す者の戦で負った傷がもとでこの世を去ってしまう。, リチャードの弟でありジョンの兄でもあるジェフリの息子アーサーが継承権としては上であったが、まだ12歳という年齢であったため、後継者はジョンに決まった。, ジョンが即位した後もアーサーを推す一派のとの抗争が繰り広げられたが、最終的に内戦は終わり、ジョンは伝統に従ってウエストミンスター寺院で戴冠式を行った。, ジョンが即位してまずやったことはフランス王フィリップ二世への土地の割譲であった。ヴェクサンとエブルーという土地を割譲した。これは即位の際にフランス王フィリップ二世の後押しがあったからであると言われている。, 次にやったことが妃であった前妻と別れアンキテーヌ地方に広大な土地を持つイサベラと結婚したことであったが、この結婚にはイングランド諸侯が反対したばかりかイサベラには既に婚約者がおり、この結婚を不当としてフランス王に訴えられてしまう。, ジョンはアンジュー伯としての地位を受け継いでいるため、フランス王には臣従の礼をとっており、フランス王からの召喚に応じる義務があったがこれを無視、フィリップ二世との戦争に突入してしまう。, フィリップ二世はジョンの即位そのものを不当とし、アーサーこそが正当な王だと主張。するとジョンはアーサーの軍を打ち破り、彼の身柄を幽閉、しかしその後すぐにアーサーが死んでしまう。, まだ幼きアーサーの死にイングランド諸侯を始めあらゆる勢力が反発、ジョンはイングランドに帰らざるを得ず、その隙にフィリップ二世はノルマンディを始めとしたジョンの領地への侵攻を開始する。, 尊厳王(オーギュスト)の名を持つフィリップ二世の前に、ジョンは次々とヨーロッパ大陸における領土を失っていく。, 1204年には先祖伝来ともいえる旧ノルマンディ公国領の全てがフランス王の軍門に降り、ジョンのもつ「ラックランド」の意味は土地を継承できないという意味から土地を失った者「欠地王」という意味に転じていくことになる。, 彼は「欠地王(ラックランド)」の他にも「甥の殺害者」「腰抜け王(ソフトソード)」「ノルマンディの喪失者」などのあだ名がつけられることになっていく。, フィリップ二世にも天敵がいた。最強のローマ教皇と呼ばれるようになり「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉を遺したインノケンティウス三世である。, インノケンティウス三世は離婚問題においてフィリップ二世に波紋を言い渡し、フィリップ二世は結局ローマ教皇に屈服することになるのだが、それはさておきイングランド王とローマ教皇は伝統的に司祭への叙任権について王権と教皇権のどちらが優位かで争っていた。, 当時の正式文書はラテン語であり、ラテン語を操れるのは司祭階級のみであったため、司祭階級においては単なる精神的支柱以上の役割を果たしていたのだ。賢人議会を始めとした議会においても司祭階級の議席は多く、その叙任権は非常に重要であった。, ことの発端はリチャード一世時代からの腹心であるカンタベリー大司教のハルバート・ウォルターの死去による後継者任命問題で、ローマ教皇は後継者にスティーブン・ラングトンという人物を推薦してきた。この人物は長い間フランス王に仕えていた人物でもあったため、ジョンはこの叙任を拒否、するとローマ教皇はジョンに対し破門を言い渡し、「聖務停止(インターディテクト)」を宣言した。, この資金をもってジョンはノルマンディ奪還を目論んだが、ジョンに従う諸侯は誰もいなくなっていた。, 困り果てたジョンはローマ教皇インノケンティウス三世に屈服し、自らスティーブン・ラングトンのイングランド上陸を迎えたという。, もっとも、これ以降インノケンティウス三世はジョンの庇護者となり、こののちジョンがイギリス諸侯の全てを敵に回した時でもジョンの味方となっている。, 中学生の教科書の、憲法の歴史は「マグナカルタ(大憲章)」から始まる。世界史というよりも政治経済や公民という教科における最重要項目であるが、そのマグナカルタが出されたのがジョン王の時だということはあまり知られていない。, さらにマグナカルタがあまりにもジョンが酷かったために出されたのだということも知られてはいないだろう。, ことの発端はジョンがフランス侵攻をするための課税であった。アメリカ独立の契機ともなったのが印紙法などの課税に関する法律であったが、イギリスでは戦争をするたびに議会で課税をするための法案を出すのが伝統的であった。, ジョンはローマ教皇インノケンティウスを後ろ盾に、神聖ローマ皇帝オットー四世やフランス貴族などとも手を結び、フランス侵攻への準備を着々と進めていたのだが、明らかに軍費用が足りなかった。, 参考までにヘンリー二世は38年間の治世時に8回、リチャード一世は10年の治世の間4度、ジョンは16年の治世で11回と圧倒的に多い。, さらにジョンの取り巻きは兄や父同様英語を話すイギリス人ではなくフランス語を話すフランス人であったのだ。, 思い起こせば1066年にノルマンディ公ウィリアムがイングランド王になって以来、宮廷では英語ではなくフランス語が飛び交い、イングランドの地はフランスの属国と言っても良い扱いを受けていた。, 具体的には「エドワード証聖王の法」や「ヘンリー一世の戴冠憲章」などである。ジョンはこれを拒否し、イングランド王とイングランド諸侯との間で内戦が勃発することになった。, この時イングランド諸侯が出したのが「マグナカルタ(大憲章)」である。内容は課税をする際には王の独断では決めず、司祭や貴族、騎士会階級や市民階級からの代表者を招いた議会の承認を必要とするものであった。, ジョンは一度はこれを承認するも翌年に拒否、再び内戦状態になった1216年、突然死んでしまう。, マグナカルタを突き付けられたのはジョンであったが、その実現は次のヘンリー三世の時代に持ち越されることになる。, どんな暴君や暗君でも一つぐらいは功績があるものだが、ジョンには全くない。清々しいほどない。, 近年ではジョンへの再評価の動きもあるようで、実はジョンは優れた行政権を持っているという評価もあるのだが、かなり苦しい。, もっとも、民主政治や憲法の歴史を見るに、マグナカルタはその発端となっており、非常に重要な役割を持っている。それはある意味ジョンの無能さから来ているので、そういう意味ではどんな名君よりも功績は大きいのかも知れない。, それにさ、ローマの皇帝や中国の皇帝に比べたらまだマシじゃないか。北宋を滅亡させた徽宗皇帝や劉備や孔明が必至こいて建国した蜀を滅亡させた劉禅に比べたら、政治に興味があるだけまだマシだし、アントニヌス勅令みたいな長期間にわたってローマを衰退させるような悪法を出したカラカラ帝に比べれば、イングランドなんてこれ以降発展した訳だし。, 議会に支えられたという点もあるけれど、ジョンぐらいで歴代最低なんだから、イギリスの王は優秀な人物が多かったと思う。, 個人のカリスマがものを言う中国やローマとはその辺りが大きく異なるんだけど、その分歴史としてはやっぱりダイナミックさに欠けてしまうのも確かである。, 世界史を面白く!!をコンセプトに運営しているブログ。山川より詳しくwikipediaよりも読みやすくをモットーに。, チンギス・ハーンの4男トゥルイ!フビライ・ハーンの父親というだけじゃないその能力の高さを見よ. ジョン失地王. ジョン(John, King of England、1167年 12月24日 - 1216年 10月18日または19日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド 王(在位:1199年 - 1216年)。 同朝の初代王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。 通称は欠地王または失地王(John Lackland)で、出生時に父ヘン … ダブリン城は1204年イングランドのジョン王により建設された。イギリス支配の象徴であり、内部は豪華で贅(ゼイ)の限りを尽くしている。城門の上に立つ、右手に邪悪を退ける剣を、左手に公平を表す天秤を持つ正義の女神像は城内を向きダブリン市民には背を向けている。 1204年 ジョン王 (King John of England) 、フランス王フィリップ (Philip II) と争い、ノルマンディーを含む殆どのフランス領土を失う。 1210年 この頃、オックスフォード大学の講師、学生の一部が移住し、ケンブリッジ大学の基礎できる。 1215年 父:スコットランド王ロバート2世 初名:ジョン 1368-1390 キャリック伯 1390-1406 スコットランド王 妻:アナベラ・ドラモンド1350?-1401(父:サー・ジョン・ドラモンド) 1378-1402 デーヴィド ロバート(夭折) 1394-1437 ジェームズ1世 ? 第4回十字軍(1202~1204) 法然(1133~1212) 熊谷直実(1141~1208) チンギスハン中国侵攻開始(1211) マグナ・カルタ制定(1215年) 北条時政(1138~1215) 栄西(1141~1215) 平徳子(1155~1213) ジョン王(在位1199~1216) 鴨長明(1155?~1216) 源実朝(1192~1219) アンジュー帝国三代目ジョン王はラックランド(lackland、土地なし、無地、欠地)の仇名で知られている。子供の頃に兄たちが領土を分配され、ジョンには分ける土地がないとからかわれたのが由来であるが、アンジュー帝国を継承した後、フランス領土の大部分を失ったことで後世に残 … アキテーヌ公(フランス語: duc d’Aquitaine )は、フランスのアキテーヌ地方の君主。 首城はボルドーのトロンペット城だった。 アキテーヌ公の所領を表す語として、アキテーヌ、ギュイエンヌ、ガスコーニュの語が使われるが、この3つは厳密な使い分けが必ずしもなされていない。 高麗20代王 神宗(シンジョン) 王晫(ワン・タㇰ) 1144.8.11(陰7.11)生~1204.2.15(陰1.13)没 在位 : 1197~1204 (次男) 襄陽公 王恕(ヤンヤンコン ワン・ソ) 生没年未詳 襄陽公の兄(長男)が 21代王 熙宗(ヒジョン) (三男) 始安公 絪(シアンコン ワン・イン) ?~1275 ノルマン人の北フランス襲来は840年頃から始まり、北海にそそぐ主要河川の河口から内陸へと侵攻、856年から、パリ、シャルトル、エヴルーその他有力諸都市が次々と襲撃・略奪され、多くの修道院や施設が破壊された。 ノルマンディー公国はヴァイキングの侵攻に悩む西フランク王シャルル単純王が911年、ノルマン人の首長ロロにキリスト教への改宗と臣従を条件に領地として与えたことに始ま … John the Lackland: 1167–1216 (イングランド王在位 1199–1216) プランタジネット朝父王ヘンリー2世の末子(5男),兄王リチャード1世の末弟; 1204年,フランス王フィリップ2世に敗れ,フランスの領地を喪失 日本大百科全書(ニッポニカ) - ジョン(王)の用語解説 - プランタジネット朝第3代のイギリス王(在位1199~1216)。ヘンリー2世の末子。あだ名は欠地王Lacklandで、出生時フランス国内の領土が3人の兄にすべて与えられていたことに由来。兄リチャード1世の十字軍出征中王位をうかがったが失敗。 1204年、ノルマンディー公を兼任するイング ランド王、ジョンがフランス王フィリップ2世 に敗れ、ノルマンディー公国の領土を失ったが、 ノルマンディー公国領土の一部であったジャー ジーは、他のチャネル諸島とともにイングラン 1204 第4回十字軍で、ラテン帝国を建てる 1206 アイバクがインドに奴隷王朝を建てる(~1290) 1206 チンギス・ハンがモンゴルを統一する 1215 イングランドのジョン王がマグナ・カルタを承認 1220 モンゴル帝国がホラズムを滅ぼす 1204年、 ジョン王 が フランス 王 フィリップ2世 との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1 1214年、ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。� 1204年 ジョン王 (King John of England) 、フランス王フィリップ (Philip II) と争い、ノルマンディーを含む殆どのフランス領土を失う。 1210年 この頃、オックスフォード大学の講師、学生の一部が移住し、ケンブリッジ大学の基礎できる。 1215年 インノケンティウス3世. 1215ジョン王、大憲章マグナカルタ 1216ジョン王死去 ヘンリー3世王位継承 1192源頼朝征夷大将軍となる 1205新古今和歌集 1219源頼朝が暗殺される 1221承久の乱 1223道元、入宋 1232御成敗式目制定 1253日蓮、日蓮宗を開く 1260日蓮「立正安国論」 興隆期 年表