建武元年(西暦25年)6月22日は、光武帝(劉秀)が漢王朝(後漢)を再興した日です。, 世界史を専攻されていない方は疑問に思ったことはないでしょうか? 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 04:37 UTC 版) 漢. やまもりのブログ. 11 足利義澄(1495-1508) 後漢(ごかん、中国語: 東漢 、拼音: Dōnghàn 、25年 - 220年)は、中国の古代王朝 。 漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。 都は洛陽(当時は 雒陽 と称した。 ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。 五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。 赤眉の乱により王莽は殺害、新は滅びましたが赤眉軍も前漢 6代目 ... によって壊滅、劉秀が皇帝として漢を再興することになります。 後漢の誕生 . 3 徳川家光(1623-1651) 新・後漢 確定者(9名) 劉秀 紀元前6年-57年 後漢の光武帝、廟号は世祖 紹介・推薦文上がるまでもなく確定したが、一時確定から外す議論もあった 思いきって光武帝を外してみるのはどうでしょうか? 新末後漢初 中国大陸の新王朝末期、漢王朝の興りを舞台としたシナリオ。 シナリオデータ シナリオ名 新末後漢初 作者 南北朝 ジャンル 古代(中国史) 現バージョン 1.1 最終更新 前漢 漢 ← 前206年 - 8年 → 前漢の領域 公用語 漢語(中国語) 首都 長安 皇帝 前202年 - 前195年 劉邦 前11年 - 5年平帝(最後) 変遷 建国、楚漢戦争 前206年 垓下の戦い前202年 滅亡8年 12 徳川家慶(1837-1853) 6 足利義教(1429-1441) 新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。 前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。 成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州 南陽郡に存在する)に封じられたことにより国号を新とした。 莽漢とも呼ばれる。 3 源実朝(1203-1219) 5話:頓挫する王莽の新と、後漢王朝の復活 前漢を滅ぼした、 王莽(おうもう) は、皇帝の 外戚(がいせき) から出た人物です。 外戚(がいせき)とは、平たく言えば、皇后の親戚・家族の事を意味してい … [前45~後23]中国、前漢末の政治家。 新朝の創建者。 在位9~23。 字(あざな)は巨君。成帝の母王太后の甥。平帝を立てて政権を握り、のち平帝を毒殺して帝位に就き、国号を新とした。 在位15年。儒教的政策を強引におし進めたが失敗。 劉秀(りゅうしゅう)(後漢の光武帝)に攻められ敗死した。 ・前漢の最盛期を築く 2. 新 (後8~23年) ・外戚の 王莽 が建国 ・ 赤眉の乱 (18~27年)により滅亡 3. 後漢 (25~220年) ① 劉秀 ・赤眉の乱を平定し、漢を再興 ・ 光武帝 として即位(在位:25~57年) ② 党錮の禁 ・166年、169年 目次宦官と外戚前漢の終わり、新の時代へ赤眉の乱 宦官と外戚 皇帝の側近 武帝の死後 前漢の終わり、新の時代へ 外戚・王莽のクーデタ 「新」だけど「古い」 赤眉の乱 確認テスト 古代中国 これまでを前漢と言い、王莽の新を倒した劉秀が漢王朝を再建するが、そちらは後漢として区別する。後漢は3世紀に滅亡するが、前漢と合わせて約4世紀にわたって中国を支配し、周辺の諸民族に大きな影響を与えたので、「漢」の名称は現在まで中国を意味する語句として定着している。 15 足利義昭(1568-1588), 1 徳川家康(1603-1605) 芸能人ブログ 人気ブログ. 赤眉の乱により王莽は殺害、新は滅びましたが赤眉軍も前漢 6代目 ... によって壊滅、劉秀が皇帝として漢を再興することになります。 後漢の誕生 . 次から書く記事のために、中国の漢・魏晋南北朝時代の皇帝一覧表を予め載せておきます。(以下ウィキペディアからの引用です。) 前漢太祖(劉邦、在位紀元前206年 - 紀元前195年)恵帝(劉盈、在位紀元前195年 - 紀元前188年)少帝恭(劉恭、在位紀元前188年 - 紀元前184年)少帝弘(劉弘、在位紀元 … その一方で、後漢もまた前漢と同様、宦官や外戚に支配されてしまう。 特に 後漢 の皇帝は、初代の 光武帝 と第2代の明帝を除いて幼少での即位が続いたため、容易に傀儡とされてしまったのである。 これまでを前漢と言い、王莽の新を倒した劉秀が漢王朝を再建するが、そちらは後漢として区別する。後漢は3世紀に滅亡するが、前漢と合わせて約4世紀にわたって中国を支配し、周辺の諸民族に大きな影響を与えたので、「漢」の名称は現在まで中国を意味する語句として定着している。 新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。 前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。 成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州 南陽郡に存在する)に封じられたことにより国号を新とした。 莽漢とも呼ばれる。 目次宦官と外戚前漢の終わり、新の時代へ赤眉の乱 宦官と外戚 皇帝の側近 武帝の死後 前漢の終わり、新の時代へ 外戚・王莽のクーデタ 「新」だけど「古い」 赤眉の乱 確認テスト 古代中国 9 守邦親王(1308-1333), 1 足利尊氏(1338-1358) なぜ漢王朝は前漢と後漢に分かれているの?と。, 「一度滅んだ王朝が同じ血筋の人物によって復活する」というのは、中国だけでなく世界史でも珍しいこと。 新末後漢初/Wikipedia 前漢と後漢の時代の中国の最大版図の大きさの比較. 光武帝の思いやりが仇になってしまったのです。, また、反乱を起こさない豪族や官僚も、中央に賄賂を送るために民衆から搾取しまくります。, 後漢では、絵に描いたような腐敗政治と戦乱の時代が長く続いたのです。 2 足利義詮(1359-1367) 9 徳川家重(1745-1760) もぎせか世界史講義 http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/冒頭0:12 「項羽っていう人は」→「劉邦っていう人は」の誤りです。 やまもりのブログ. 前漢の滅亡後に起こった新王朝は、 赤眉の乱 によって15年で滅亡してしまいました。 この反乱に乗じて立ち上がったのが、 劉秀 (りゅうしゅう)です。 劉秀は漢王朝の血を受け継ぎながらも控えめな性格で、周囲の度重なる後押しの結果、 後漢 の皇帝に就任して 光武帝 となりました。 後漢では都は 洛陽 (らくよう)に置かれました。 新朝(西暦8年~23年) 西暦8年、前漢朝の外戚であった摂皇帝王莽は、傀儡として皇太子の位にとどめていた前漢最後の皇太子孺子嬰(劉嬰)より禅譲を受けて、皇帝… 中国の身長の変遷史8 新代・後漢初の平均身長 | やまもりのブログ. 前漢と後漢の時代の中国の最大版図の大きさの比較. 今回は、前漢の消滅以後の話を見ていきたいと思います。 それでは、さっそく始めましょう! 目次 新の成立 後漢の成立 漢の社会と文化 新の成立 この時代、皇帝の側近である宦官(かんがん)や外戚が徐々に力を付けはじめていきます。 そして劉秀は即位から11年で中国各地を平定し、漢王朝の復活を成し遂げます。, 王莽がめちゃくちゃをやったおかげで民衆はすっかり疲弊していたため、光武帝となった劉秀はまず、国力を蓄えることを優先しました。, 中でも大きく影響を与えたのが、地方への駐在軍を廃止し、徴兵をやめて傭兵で軍事を賄ったことです。 なぜ漢王朝は 前漢と後漢 に分かれているの?と。 「一度滅んだ王朝が同じ血筋の人物によって復活する」というのは、中国だけでなく世界史でも珍しいこと。 一体どのようにして、そんな至難の業を成功させたのでしょうか。 後漢(ごかん、中国語: 東漢 、拼音: Dōnghàn 、25年 - 220年)は、中国の古代王朝 。 漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。 都は洛陽(当時は 雒陽 と称した。 ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。 五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。 もっと具体的にいえば、サラリーマンに対して「所得税を米で納めろ!」というような感じでしょうか。, 劉秀は前漢の六代皇帝・景帝の末裔にあたり、血筋的にも人格的にも優れていました。最初は兄に従う形で挙兵し、本家筋にあたる劉玄(更始帝)にも臣下の礼をとりました。, しかし、その二人よりも劉秀のほうがリーダーシップを発揮し、王莽を討ち果たすのです。, 見事に王莽を討ち取り、天狗になってもおかしくない場面。 漢(紀元前206年 - 220年) . 中国を初めて統一したのは、教科書でもおなじみの始皇帝です。 始皇帝の王朝は「秦」といいますが、跡継ぎをハッキリさせないまま急死してしまい、二代目で滅亡という呆気ない終わりを迎えてしまいます。 そして項羽と劉邦をはじめとした戦乱の時代を経て、最終的に劉邦が漢王朝を作りました。 時は流れ、漢の十五代目の皇帝になるはずだった劉嬰りゅうえいのとき、外戚である王莽(おうもう)によって一度滅びてしま … 5 徳川綱吉(1680-1709) 8 徳川吉宗(1716-1745) 現代でいえば書類偽造にあたる行為を行って、自らを正式な皇帝とし「新」という新しい国を作ることを宣言するのです。, 出世の糸口となった王政君は当然大激怒。 こうすることで軍にかかる費用を減らし、さらに兵を養うためにかかる税を減らしました。, 後漢では30代で亡くなる皇帝が多く、世代交代が非常に早く行われました。ほとんどの皇帝が10代前半で即位しています。, こんなに若い皇帝が親政を行えるはずもなく、自然と宦官や皇帝の外戚が実権を握るようになっていきました。となると身内びいきが状態化するわけで、それに不満をいだいた地方豪族や民衆の反乱が相次ぎます。, 正規軍を減らしたことで、反乱を鎮圧できなくなってしまったことも一因でした。 漢(前漢) :前202~後8 劉邦が項羽を倒して建国しました。武帝のときに儒教を国教としました。 新 :後8~23 王莽が前漢を乗っ取った王朝です。 漢(後漢) :25~220 光武帝が漢王朝を再興しました。 今回は、前漢の消滅以後の話を見ていきたいと思います。 それでは、さっそく始めましょう! 目次 新の成立 後漢の成立 漢の社会と文化 新の成立 この時代、皇帝の側近である宦官(かんがん)や外戚が徐々に力を付けはじめていきます。 前漢(西漢)(紀元前206年 - 9年) 新(9年 - 23年); 後漢(東漢)(25年 - 220年) 始皇帝は紀元前211年に5回目の東方巡幸に出発したが、途中で発病し、翌年50歳で死去した。 (光武帝:wikiより) 紀元後8年、漢王朝の外戚だった王莽は前漢最後の皇帝を廃して、新を建国しました。王莽は儒教に基づいた政治を行いましたが、現実性を欠く復古的な政治だったため各地で王莽に対する反発が拡大します。 18年、王莽が干ばつや飢饉に何ら手を打たないことに怒った民衆は反王莽の兵をあげます。地方豪族も反乱に加わり、新は急速に力を失いました。反乱軍が眉を赤く塗っていたため赤眉軍とよばれます。これを赤眉の乱と言います。 そこで、中国全土が混乱する中で、漢の王族に … 三国志の前期のハイライトに登場する何進大将軍も、元々は豚の屠殺業者でしたが、妹が後漢の霊帝の妃になり、王子を産む事で引き立てられ、袁紹のような名門出身の貴族の上司になっています。 さて、王莽は、前漢10代皇帝、元帝の皇后、王政君の甥でした。王一族は、その功績で外戚として位人臣を極めましたが、王莽の父や、兄弟は早くに死んだ為に王一族では貧しい方でした。王莽は、自分が出世する為には手段を選 … ホーム ピグ アメブロ. 漢(紀元前206年 - 220年) . 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 04:37 UTC 版) 漢. 14 足利義栄(1568-1568) 4 足利義持(1395-1423) 芸能人ブログ 人気ブログ. それでも劉秀は、あくまで更始帝を立てた行動に徹します。と、これがまた人望を集めることになりました。, 更始帝は劉秀の実力を恐れ、都に縛り付けたりいろいろやりますが、他に地方の反乱を平定できる人物がおらず、結局劉秀を頼ることになります。, 劉秀もそれに気づき、数十万の兵を味方につけた時点で更始帝を見限りました。 新末後漢初 中国大陸の新王朝末期、漢王朝の興りを舞台としたシナリオ。 シナリオデータ シナリオ名 新末後漢初 作者 南北朝 ジャンル 古代(中国史) 現バージョン 1.1 最終更新 4 藤原頼経(1226-1244) ↑足利義材が改名して復帰 14 徳川家茂(1858-1866) 部下にも「貴方が皇帝になったほうがいい」と言われ、自ら即位することを決めます。, 即位については二回は断り、三度目でようやく承知したとか。劉備と諸葛亮の「三顧の礼」の元ネタ?かもしれませんね。頼むほうと頼まれるほうの身分が逆ですが。, 赤眉軍はその後、劉秀の部下に敗れ、劉秀に降伏しました。 成帝の母が王莽の伯母・王政君だったからです。, 成帝の次に即位した哀帝は外戚を排除しようとし、王莽も一時地方へ追いやられましたが、王莽復帰の嘆願が多く集まったために、復帰させざるを得ませんでした。 その一方で、後漢もまた前漢と同様、宦官や外戚に支配されてしまう。 特に 後漢 の皇帝は、初代の 光武帝 と第2代の明帝を除いて幼少での即位が続いたため、容易に傀儡とされてしまったのである。 8 久明親王(1289-1308) 以後、「前漢」「後漢」をあわせて、約400年にわたり、中国を統治します。 建国当初は「漢」でした。 のちに「漢」が滅び、ふたたび再興します。 そのため、さいしょにできたほうを「前漢」、のちに復興したほうを「後漢」とよびます。 郡国制 6 宗尊親王(1252-1266) 12 足利義晴(1522-1547) 2 徳川秀忠(1605-1623) 11 徳川家斉(1787-1837) 漢(前漢) :前202~後8 劉邦が項羽を倒して建国しました。武帝のときに儒教を国教としました。 新 :後8~23 王莽が前漢を乗っ取った王朝です。 漢(後漢) :25~220 光武帝が漢王朝を再興しました。 7 徳川家継(1713-1716) スポンサーリンク 13 徳川家定(1853-1858) ※代理:足利義持(1425-1428) ・前漢の最盛期を築く 2. 新 (後8~23年) ・外戚の 王莽 が建国 ・ 赤眉の乱 (18~27年)により滅亡 3. 後漢 (25~220年) ① 劉秀 ・赤眉の乱を平定し、漢を再興 ・ 光武帝 として即位(在位:25~57年) ② 党錮の禁 ・166年、169年 7 足利義勝(1442-1443) [前45~後23]中国、前漢末の政治家。 新朝の創建者。 在位9~23。 字(あざな)は巨君。成帝の母王太后の甥。平帝を立てて政権を握り、のち平帝を毒殺して帝位に就き、国号を新とした。 在位15年。儒教的政策を強引におし進めたが失敗。 劉秀(りゅうしゅう)(後漢の光武帝)に攻められ敗死した。 新朝(西暦8年~23年) 西暦8年、前漢朝の外戚であった摂皇帝王莽は、傀儡として皇太子の位にとどめていた前漢最後の皇太子孺子嬰(劉嬰)より禅譲を受けて、皇帝… 中国の身長の変遷史8 新代・後漢初の平均身長 | やまもりのブログ. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}). 4 徳川家綱(1651-1680) ホーム ピグ アメブロ. 6 徳川家宣(1709-1712) 前漢(西漢)(紀元前206年 - 9年) 新(9年 - 23年); 後漢(東漢)(25年 - 220年) 始皇帝は紀元前211年に5回目の東方巡幸に出発したが、途中で発病し、翌年50歳で死去した。 3 足利義満(1369-1395) 10 足利義材(1490-1493) 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. 15 徳川慶喜(1867-1868), 本サイトはリンク報告不要です。 光武帝/Wikipedia 以後、「前漢」「後漢」をあわせて、約400年にわたり、中国を統治します。 建国当初は「漢」でした。 のちに「漢」が滅び、ふたたび再興します。 そのため、さいしょにできたほうを「前漢」、のちに復興したほうを「後漢」とよびます。 郡国制 7 惟康親王(1266-1289) 光武帝は草葉の陰で泣くどころか悶絶してたでしょうね。, そんなこんなで184年に黄巾党という新興宗教の首領・張角が反乱を起こし、それを討伐しようと名乗りを上げたのが曹操や劉備、孫堅などでした。, しばらくの間、三国の一つである魏(曹操)とそれを簒奪した晋によって漢王朝の血筋は保たれましたが、その後殺されたため、結局絶えてしまいました。, 【参考】 新・後漢 確定者(9名) 劉秀 紀元前6年-57年 後漢の光武帝、廟号は世祖 紹介・推薦文上がるまでもなく確定したが、一時確定から外す議論もあった 思いきって光武帝を外してみるのはどうでしょうか? 王莽自身も、貨幣の改鋳など悪政の見本市みたいな失策を乱発し、新の財政はみるみるうちにズタボロに。高句麗や自国内の民衆による反乱が相次ぐようになります。, 一応、王莽としては「周王朝をマネすれば良い政治ができるに違いない!」と考えて前例にならっていたのですが、いかんせんこの時点で周の時代から300年ぐらい経っています。 前漢の滅亡後に起こった新王朝は、 赤眉の乱 によって15年で滅亡してしまいました。 この反乱に乗じて立ち上がったのが、 劉秀 (りゅうしゅう)です。 劉秀は漢王朝の血を受け継ぎながらも控えめな性格で、周囲の度重なる後押しの結果、 後漢 の皇帝に就任して 光武帝 となりました。 後漢では都は 洛陽 (らくよう)に置かれました。 例)帰蝶、織田信長, 1 源頼朝(1192-1199) 確かに細々とは続いてましたが、実効支配できた年数でカウントした方が良いかと, 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 以上のように、 漢帝国 は、王莽による帝位の簒奪と新の建国が行われた 漢王朝の断絶期 においては、相次ぐ周辺諸国の離反と帝国の中心部において生じた大規模な農民反乱などの影響によって、その 広大な版図の大部分を失ってしまう ことになるのですが、. 民意に従った形ですが、これがかえって漢に悪影響を与えることになります。, 王莽は儒学や占いに基づいた政治を行う一方で、人気取りのため自分の息子達を自殺に追いやるなど、冷酷な面も表し始めました。 5 藤原頼嗣(1244-1252) Ameba新規登録(無料) ログイン. もぎせか世界史講義 http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/冒頭0:12 「項羽っていう人は」→「劉邦っていう人は」の誤りです。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 周王朝はもっと前だったはずですが... そして項羽と劉邦をはじめとした戦乱の時代を経て、最終的に劉邦が漢王朝を作りました。, 時は流れ、漢の十五代目の皇帝になるはずだった劉嬰りゅうえいのとき、外戚である王莽(おうもう)によって一度滅びてしまうのです。, しかし伯父である大将軍・王鳳が亡くなる前に「王莽のことをよろしくお願いします」と当時の皇帝である成帝に託すと、王莽もヒイキされて出世していきます。 前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。, 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。, 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される[1]。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。, 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。, 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖=258.24g 容積・1斛=34.3l。, 戦国時代を統一した秦の始皇帝は皇帝理念・郡県制など、その後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。しかしその死後、二世皇帝が即位すると宦官の趙高の専横を許し、また阿房宮などの造営費用と労働力を民衆に求めたために民衆の負担が増大、その不満は全国に蔓延していった。, 紀元前209年に河南の陳勝による反乱が発生したことが契機となり、陳勝・呉広の乱と称される全国的な騒乱状態が発生した。陳勝自身は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害されたが、反秦勢力は旧楚の名族である項梁に継承され、楚を復国し義帝を擁立、項梁の死後はその甥の項羽が反秦軍を率いて反秦活動を行った。漢の創始者である劉邦はその部下として秦の首都であった咸陽を陥落、秦を滅亡させた。その後は西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から漢中に封建されて漢王となった劉邦との間での内戦が発生した。(楚漢戦争), 当初、軍事力が優勢であった項羽により劉邦はたびたび敗北したが、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中においては張良の意見を重視し、自らの根拠地である関中には旗揚げ当時からの部下である蕭何を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行い、更に将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する。これらにより徐々に勢力を積み上げていった劉邦は紀元前202年の垓下の戦いにて項羽を打ち破り、中国全土を統一した。, 劉邦は諸将に推戴され皇帝に即位する(高祖)。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。, 紀元前195年、高祖は崩御。その跡を劉盈(恵帝)が継ぐ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、さらにその母の戚夫人を残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さに衝撃を受け、失望のあまり酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。呂后は前少帝、後少帝(劉弘)を相次いで帝位に付けるが、劉弘は実際には劉氏ではなかったとされる[2]。, 呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産、呂禄らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせ外戚政治を行う[2]。「劉氏にあらざる者は……」という皇族重視の国家体制の変質である。呂后は呂氏体制を確立するために奔走したが紀元前180年に死去した[2]。呂后の死去に伴い反呂氏勢力が有力となり、朱虚侯の劉章・丞相の陳平・太尉の周勃らが中心となり呂産をはじめ呂氏一族は粛清され、呂氏の影響力は宮中から一掃された。, 秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い内戦状態は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失った。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした。, 紀元前157年に文帝は崩御。この時に文帝は新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けるように遺言した。その跡を劉啓(景帝)が継ぐ。景帝もまた基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたと言う[# 1]。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽は当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた[# 2]。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。, 国力の回復と共に、諸侯王の勢力の増大が新たな問題として浮上した。また、塩や鉄製品を売り捌く商人や、国家の物資輸送に携る商業活動も活発化し商人の経済力が増大した。物を生産せず巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを提言したのが文帝期の賈誼であり、景帝期の鼂錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである。(#豪族を参照のこと。), 生産の回復は中央の勢力を増大させたが、同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められていた。これを抑圧することを提言したのが鼂錯である。鼂錯は諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉濞が中心となって紀元前154年に呉楚七国の乱を起こす。この乱は漢を東西に分ける大規模な反乱だったが周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。, これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。, 景帝は紀元前141年に崩御し、16歳の劉徹(武帝)が即位した。この時、史上初めて「建元」という元号が立てられ、祖母竇太后の元、治世が始まった。武帝は文景の治で国家財政・経済が充実、政治も安定したことから積極的な活動を行おうと考え、まず儒者を取り立てて政治の刷新を図ろうとした。しかし、これは竇太后の反対に遭って推進できなかったが、建元6年竇太后が死去すると状況が変わる[3]。, 竇太后という束縛の無くなった武帝はこれより「雄材大略」ぶりを発揮する。内政面においては儒者公孫弘、董仲舒らを登用、郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した[3]。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった。, 外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた。これに対して武帝は前134年に馬邑[# 3]の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した。前129年に実施された第一回目の遠征では4人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている。以後衛青は7度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げ、匈奴は壮丁数万、家畜数十万頭と記録される被害を受けた。また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという戦果も挙げた。漢軍の攻勢を避けるため、匈奴は漠北(ゴビ砂漠の北)への移住を余儀なくされ、漢は新たに獲得した西域に朔方・敦煌などの郡を設け直接統治を開始した。, 朝鮮の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡をベトナムには日南郡を設け新たな直轄領とした。また、匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫・大宛・その他の西域諸国と関係を結び、西域との間にいわゆるシルクロードの交易路が開けた。そして「中国」と呼ばれる領域の大枠がこの時代に始まった[4]。, さらに武帝は始皇帝の例にならい各地を巡行、元封元年(前110年)には泰山で封禅を行った。これは聖天子にのみ許される儀式であり、それ以前に行ったのは始皇帝のみであった。この頃が武帝の絶頂期であったとされる[4]。, しかし相次ぐ軍事行動は財政の悪化を招き、農民の自作放棄に伴う大地主による土地の併呑が深刻な問題となった。武帝は経済官僚である桑弘羊を登用して塩鉄専売制を開始、また商人に対しては均輸・平準を行い、商工業者に対して新税を設置、国家収入の増大を図り財政収入は増大したが、専売と新税により商人は商業活動に打撃を被った。治世の後半は、没落した多数の農民や商人による盗賊の横行に悩まされる。, 社会不安に対して武帝は酷吏を登用、厳格な法治主義で対応した。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また前106年には郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設した。, 晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、皇太子であった戻太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戻太子は長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の禍)。後に戻太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。, 巫蠱の乱の後の皇帝の後継者は長期間空白が続いていたが、武帝は崩御の直前にわずか8歳の幼齢である劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光・桑弘羊・上官桀・金日磾に後見役を命じた。, 前87年に武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に後見人の一人である金日.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku 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宣帝の政治は基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善するように指導させる循吏を多く登用している。その一方、豪族に対しては酷吏を用いて厳しい姿勢で臨んだ。, 対外面では匈奴国において短命な単于が相次いだ事による内紛や、天候不順による状況の悪化に乗じて前71年、校尉の常恵と烏孫の連合軍による攻撃で、3万9千余人の捕虜と70万余の家畜を得て匈奴に壊滅的な打撃を与えた。さらに西域に進出し、前60年には匈奴国家が西域オアシス諸国家の支配・徴税のために派遣していた日逐王先賢撣を投降させることに成功している。これを機に西域都護を設置し、帰服した日逐王を帰徳候に封じた。, 匈奴国は西域の失陥と年賦金の途絶により、衰退と内紛を激化させ五単于並立の抗争に至った。呼韓邪単于は匈奴国家の再統一を進めたが、兄の左賢王呼屠吾斯が新たに即位して郅支単于を名乗ると、これに敗れた。呼韓邪単于は南下して漢に援助を求め、51年、自ら入朝して宣帝に拝謁し客臣の待遇を得た。これを期に匈奴国は漢に臣従する東匈奴と、漢と対等な関係を志向しつつ対立する西匈奴に分裂した。, 前49年に宣帝が崩御し、劉奭(元帝)が即位した。儒教に傾倒していた元帝は、受け入れられなかったものの太子時代に宣帝に対し儒教重視の政策を提言した経験を有す人物である。即位後は貢禹などの儒家官僚を登用し儒教的政策を推進していくこととなる。, 貢禹の建議により宮廷費用の削減・民間への減税、専売制の廃止(その後、すぐに復されている)などの政策が実施された。また貨幣の廃止による現物経済への回帰という極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった。貢禹の後を受けた韋玄成らにより、郊祀制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった。(郊祀・郡国廟・七廟などに付いては#祭祀で後述), 元帝の時代は儒者が政策の主導権を握り、儒教的教義が政治を決定を左右する等、政治が混乱した。また、宦官および外戚の台頭が進んだ。, 宣帝の信任を受けた宦官の弘恭、石顕は、病弱な元帝に代わって朝政を取り仕切り権力を拡大、遂には中書令に就き政権を掌握した。前将軍の蕭望之らは、宦官の壟断を弾劾する文書を奏上するが、逆に罪に落とされ自殺へ追い込まれた。ただ専横を振るった石顕も成帝の即位と共に失脚している。, 漢への臣従を拒む西匈奴の郅支単于に対しては、臣従した東匈奴や西方で西匈奴に対立する烏孫と攻守同盟を結び次第に追い詰めていった。郅支単于は烏孫と対立する康居と同盟して部衆を率いて北に移動したが、折からの寒気により多くの家畜が凍死した。前36年、西域都護の甘延寿と西域副校尉の陳湯が独断で郅支単于を攻め、郅支単于を討ち取り西匈奴を滅ぼした。, 前33年、元帝の崩御により劉驁(成帝)が即位する。政治の実権は外戚の王氏に握られており、成帝は側近を伴い市井で放蕩に耽るなど政治に関わらなかった。実際の政治を行ったのは皇太后である王政君の兄弟の王鳳らである。王太后は近親を次々と列侯に封じた、その中には王莽も含まれる。, 王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は翟方進ら儒教官僚の反発を招いた。その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を装い、名声を高めた。, 前7年、成帝の崩御により皇太子である甥の劉欣(哀帝)が即位。哀帝の外戚が台頭した事で、王氏は排斥され王莽も執政者の地位から退けられるが、王莽は朝廷内に隠然たる影響力を保持していた。, 哀帝は王氏派の大臣を処断、董賢を大司馬に昇進させるなど親政への意欲を見せ、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を課し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進したが、前1年に哀帝は後継者を残さないまま突然崩御した。王太后と王莽は皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪、元帝の末子の子である劉衎(平帝)を擁立した。, 政権を掌握した王莽は王氏の実力を背景に簒奪の準備に着手する。『周礼』に則り聖人が執政する場所とされる明堂を建築、遠国からの進貢や竜が出たやら鳳凰が飛んできたやら瑞祥とされる事柄を演出した。また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ずると共に宰衡という称号を名乗り、九錫を授け、臣下として最高の地位に登った。, 紀元後5年、平帝が崩御(王莽が毒殺したとも言われる)すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることから正式には帝位に就けず、自ら翌年6年に王莽は仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となり、更に8年王莽は皇帝に即位、新朝を建国し漢は滅亡した。, 王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、あまりに現実離れした様々な政策は尽く失敗に終わり、呂母の乱を切っ掛けに全国で農民の蜂起が発生した。戦乱の中から劉秀が登場し再び中国を統一、漢が復興された(後漢)。, 劉邦が咸陽入りした際に、蕭何は秦の法律文書の庫を抑えて多くを保護、それを参考として漢律を作った。そのため秦と漢の連続性を強調する秦漢、秦漢帝国の熟語がよく使われる。, 「皇帝」の号は、秦の始皇帝に始まり、清の宣統帝まで続く。その間、中国において皇帝が存在しなかった時代はなく、全ての権威と名目上の権力は皇帝に帰属するものと考えられていた。, 『史記』「秦始皇本紀」は、「皇帝」とは始皇帝が自らを三皇五帝にならぶほど尊い存在になぞらえて造語したものとあり、それまでの最高位であった王の上に立つ地位である。, 一方で、漢代には天子の称号も使われている。天子はそのまま天帝の子を示す言葉であり、王の上である皇帝からすれば一段下がる言葉のはずである。王の称号を使っていた周代においても天子の語は使われている。, その間の差を説明する『孝経緯』[# 6]には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである。, この使い分けは現実の場面において、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の玉璽」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の玉璽」を押している。, なお、前漢・後漢を通じて、孝を諡号に付けて「孝○皇帝」という諡号の皇帝が多いが、これは治国立家のために「以孝為本(孝を以て本と為す)」を唱えたためである。, 令は長官を表す。郎中令あるいは県令など。丞は補佐・次官を表す。例えば丞相は皇帝を補佐し、県丞は県の副長官である。史は文書業務を担当する官のこと。尉は軍事関連の官。太尉・中尉など。, 漢制においては官僚の等級は二千石・六百石などと表される。この数字は以前は俸禄の数字であったが、漢代では等級を表すものに過ぎない。等級に含まれる主な官は以下の表の通り。このうち、八百石と五百石は前漢末期に廃止。, 漢の中央官制は三公の下に九卿[# 8]と呼ばれる諸部署が配置されている。この三公九卿はその役割において大きく2つに分類される。1つは政府の中枢にあって地方を統治する機関であり、1つは皇家の家政機関としての役割を持つものである。前者に分類されるのは以下のようなものである。, 国家の統治機関と皇帝の家政機関とが並立しているのが漢制の大きな特徴であり。元帝時代に大司農(治粟内史から改称)の扱う金額が年間70億銭、少府と分離した水衡都尉の扱う金額が33億銭、地方の郡県で扱う金額が92億銭と、地方財政が大きいのも特徴である。, 地方制度は基本的には秦の郡県制を受け継ぎ、同時に皇族を封国して諸侯王とする並立制を布いた。これを郡国制と呼ぶ。諸侯王に付いては後述。, 行政の最大単位は郡であり、その長は守(郡守)である。その属官には次官たる丞、軍事担当の尉がある。郡の下の単位が県であり、その長は一万戸以上の場合は令・万戸以下は長と呼ばれる。その属官は郡と同じく丞と尉である。景帝の紀元前148年に守は太守・郡尉は都尉へそれぞれ改称される。なお辺境においては若干異なるが、それは#兵制の項で記述する。, 武帝時代末期の紀元前106年に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う部刺史が創設された。首都周辺は皇帝直属の監察官である司隷校尉が同じ役割を果たした。当時、太守が豪族たちと結託して悪事を働くことが多かったので、その監察を任務として刺史が創設された。当初は太守の秩二千石に対して秩六百石と格の上でもはるかに低く、また一定の治所を持たず、州内を転々としていた。紀元前8年には牧と改称され、名称は牧と刺史の間で何度か変わり、時期は明確には特定できないが、刺史は監察官から州内の行政官としての権力を持つようになった。, ここまでが政府より定められた行政単位であり、その下の単位として郷・亭・里と呼ばれる組織がある。これに付いては#農村・都市を参照。, 諸侯国に関して。高祖時代には韓信を初めとする武功を挙げた功臣を諸侯王とした。しかし、高祖は異姓の諸侯王を粛清して、親族を諸侯王に就け、劉氏政権の安定を図った。, 文帝の時代には藩屏として期待された諸侯王に劉氏の本流たる中央の朝廷に対する反抗的姿勢が目立ち、また諸侯王の領土と実力が大きく脅威となっていた。, 諸侯国は自らの朝廷を持ち、丞相・御史大夫などの中央朝廷と同じ名前の官を置いた。この中、丞相は基本的には中央から派遣され、その他の官は全て諸侯王の名の下に任命した。基本的に諸侯国の政治に対して中央が介入することはできなかった。諸侯国中最大の呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、民衆に税をかける必要が無い程に富んでいたという。中央朝廷からすれば目の上のたんこぶであった。そこで諸侯王の権力を削ることを進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の鼂錯であり、これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった。, 乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変わり、諸侯王の力は大幅に削られた。また、紀元前127年に諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。主父偃の献策による。この令により、諸侯王の封地は代を重ねる毎に細分化され弱体化した。一連の政策によりほぼ郡県制と大きな差はなくなった。, 一定以上の資産(10万銭、後に4万銭)を持つ家の者を採用する制度である。また任子制と呼ばれる、一定以上の役職にある官吏の子を採用する制度も存在した。, 一方、諸侯王・郡守などが地方の才能・人格に優れた人材を中央に推薦する制度も併せて行われた。これは武帝期には郡守の義務とされ、郷挙里選制となる。推薦する基準は賢良(才能がある)・方正(行いが正しい)・諫言・文学(勉強家である)・孝廉(親に対して孝行であり、廉直である)などがあり、採用された人材を賢良方正と呼ぶ。これら賢良方正は首都長安にある太学と呼ばれる学問所に集められて五経博士による教育を受け、官僚となった。この制度と併せ資産制限が緩和されたため、官吏の供給源は次第に豪族の子弟から知識人へ移った。, 戸籍に登録された男子は23歳から56歳の間の1年間は自分の属する郡の軍の兵士に、もう1年間は中央の衛士とならねばならない。ただし病人・不具・身長六尺二寸(143cm)以下の者は除く。, 軍事の最高職は太尉である。しかし全軍事権は皇帝に属するものであり、当初の太尉は必要に応じて改廃を繰り返す非常置の職であった。武帝の元狩四年(紀元前119年)に将軍号に冠する一種の称号として大司馬が設置される。大司馬になった者としては衛青・霍去病の両者があり、その親族の霍光もまた大司馬大将軍として政権を執った。その後、宣帝の地節三年(紀元前67年)に称号から実際の役職となるが、この頃になると外戚の長が大司馬に就いて政権を執ることが多くなり、大司馬は軍事よりも政治職となった。, 首都長安に置かれる中央軍は中尉が指揮する北軍と衛尉が指揮する南軍とがあった。北軍は長安の北部にその屯所があり、長安周辺の人々が構成員となって長安の防衛・警察に当たった。南軍は地方から衛士としてやってくる人々が構成員となって宮殿の警備に当たった。またこれに加えて皇帝の身辺警護に当たるのが郎中令によって統括される郎官たちである。長安の十二の門には城門候が置かれて警備に当たり、城門候を統括する存在として城門都尉があった。またこれらとは別に屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁の七校尉が統括する部隊がある。, 地方軍の単位は郡単位であり、統括者は太守である。太守の下で実際に軍事に携わるのが都尉である。通常都尉は郡に一人だけであるが、軍事的に重要な辺境の郡などでは複数おかれる場合があり、これを部都尉と呼ぶ。また太守の軍事面での副官として郡長史が付く。, これらが平時体制である。遠征の際にはこれら軍兵をまとめるための将軍が置かれる。「将、軍にありては君命も受けざるところあり」と言われるように将軍は人事権や懲罰権などその軍に付いてはほぼ全権を持っていた。将軍の最高が大将軍である。大将軍はその他の将軍に対する命令権を持つ特別の将軍である。大将軍の次に位するのが車騎将軍・衛将軍であり、それに加えて驃騎将軍が霍去病の活躍により前期の三将軍と同格とされ、この四将軍の位は三公に匹敵した。この次にくるのが左右前後の四将軍である。これに加えて任命される時に名前も同じく付けられる雑号将軍がある。また偏将軍および裨将軍があり、これは独自の軍は率いず、他の将軍の下に入って指揮するものである。, 将軍は司令部として幕府を開く。最高の四将軍の幕府には将軍の副官として長史と司馬が付き、それぞれ事務と兵を司る。参謀として従事中郎が2人付き、他に書記官として掾・属・令史・御属が付く。実戦の部隊の最小単位は「屯」でありその長は屯長、屯がいくつか集まって曲になりその長は軍候、曲が集まって部になりその長は校尉、部が集まって全体の軍となる。, #皇帝の節で説明したように、皇帝は天子でもあり、天帝によって選ばれた存在である。故に皇帝は天帝を祀らねばならない。前漢において、それまで漠然としていた皇帝祭祀が固まり、封禅と郊祀という形になった。, また祖先崇拝を重視する儒教の勢力が強くなったことで皇帝の祖廟の祀り方もまた定式化された。, 郊祀とは首都長安の「郊」外で行う祭「祀」の意味である。祀られる対象は天と地で、長安の南の南郊で天を祀り、北の北郊で地を祀る。それぞれ南郊は冬至、北郊は夏至に行われる。, 前漢初期、高祖によって行われていた天帝祭祀は五帝祭祀である。ここでいう五帝とは三皇五帝の五帝ではなく、元々秦において、秦の旧首都である雍[# 9]において四帝(黄帝・白帝・赤帝・青帝)を祀っていたが、高祖はそれに黒帝を足して五帝の祀りをすることに決めた。この五帝を祀る場所のことを五畤という。, 武帝期、天の象徴である天帝を祀りながらそれに対応する地の象徴である后土を祀らないのはおかしいということになり、紀元前113年に汾陰[# 10]の沢中にて后土を祀ることを決めた。更にそれまで最高神とされていた五帝は本当の最高神である太一の補佐に過ぎないということになり、新たに漢長安城の離宮である甘泉宮にて太一を祀ることに決めた。この時以降、甘泉・汾陰・五畤の3つを1年ごとに順番に回って祀ることにされた。, しかし儒教の勢力が拡大すると共にこのような祀り方は古礼に合わないとして、成帝期の紀元前32年に丞相の匡衡らにより甘泉と汾陰で行うのを止めて、新たに長安の南(南郊。天を祀る)・北(北郊。地を祀る)にて祭祀を行うことに決めた。更に五畤も廃され、南郊と北郊のみが皇帝の祀るところとなった。その後、天災が相次いだことに対して劉向は祭祀制度を改悪したせいだと言い、一旦全てが旧に復された。その後、再度南郊と北郊に戻され、更に戻されるなど動揺が続いたが、最終的に平帝期の5年に王莽により、南郊と北郊を祀ることが決定された。, 甘泉宮にて太一を祀ることを決めた直後の紀元前110年、武帝は東方に巡幸に出て、泰山にて封禅の儀を執り行った。, 封禅は聖天子以外行うことができないといわれている儀式であり、武帝の祖父の文帝はこの儀式を行うことを臣下から薦められたがこれを退けている。, 武帝は国初以来の念願であった対匈奴戦に勝利を収め、自らこそ封禅を行うに相応しいと考え、この儀式を執り行った。この時に儒者に儀式のやり方を尋ねたが始皇帝の時と同じように儒者はこれに答えることができず、結局武帝の共をしたのは霍去病の息子の霍子侯だけだった。そのためこれもまた始皇帝の時と同じくその儀式の内容は判然としない。, このような状態であるため郊祀が毎年の恒例と化していったのに比べ、封禅はその後光武帝が行ったものの特別に行われる秘密の儀式に留まり、中国歴代でもこれを行った者は数えるほどである。, 高祖は自らの父である劉太公を祀る廟を作るに当たり、同族である全国の諸侯王にも劉太公の廟を作ることを命じた。これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られることになった。これを郡国廟と呼ぶ。本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れないことになっていた。ましてや臣下が皇帝の祖先を祀るなどという郡国廟は本来の礼制からは大きく外れたものであった。高祖が何故このようなことを行ったかといえば、諸侯王および天下万民の間に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとしたと考えられる。その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟はやはり問題となり、元帝の紀元前40年に韋玄成らの建議によって郡国廟は廃止された。, また同じく儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。本来の礼制においては天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。しかし元帝の時点で九[# 11]になっており、このうちのどれを廃止するかで議論が起こった。この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変・それに加えて現皇帝の4代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた。, 史上初の元号は武帝期の紀元前113年に銅鼎が発見されたことからこの年を元鼎4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は中華人民共和国により廃止されるまで続き、中華民国・北朝鮮・日本など周辺各国でも採用された。, またそれまでの10月を正月としていた顓頊暦に代わって立春を正月とする太初暦を採用した。, 当時の貨幣単位は銭と金である。銭はそのまま銭一枚のことで、金は金1斤のことであり、大体1万銭に相当する。, とある[5]。しかし時期がずれた文書ではアワ1石が3000銭になっているものもあり、当時の相場の変動がかなり激しかったことが分かる。また地域差も激しかったと思われる。, 戦国時代においては各国がバラバラに貨幣を発行していたが、始皇帝はこれを銅銭の半両銭(約8g)に統一し、国家だけがこれを鋳造できるとした。漢でもこれを受け継いだが、高祖は民間での貨幣の鋳造を認めたため、実際には半両の銅を使わずに半両銭として流通する悪銭が増えた。, その後、貨幣鋳造の禁止と許可が繰り返され、政府は貨幣の私鋳の防止を試みて三銖・八銖などの銭を発行するが私鋳は止まなかった。そして武帝の紀元前113年に上林三官という部署に新たな五銖銭(約3.5g)を独占的に鋳造させることにした。この五銖銭は偽造が難しく、これ以後私鋳は大幅に減り、五銖銭以外の銭は全て回収され、五銖銭に鋳造された。五銖銭はその後も流通を続け、後漢・魏晋南北朝時代においても引き継がれ、唐で開元通宝が作られる621年まで続いた。